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政治メイン版 元ニートだめ男のブログ

元ニートだめ男が政治を語るブログ

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再追加)厳罰化は意味ないと

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ニュースを見ると法律厳罰化は意味がないと出ていた。日本では厳罰化で意味があるというのは見たことがない。








しかし、実は死刑などで被害者が減るなどの論文も出ている。それはあまり表に出ない。お花畑の究極系の組織なら死刑排除に動きそうだし。彼らにとって加害者こそ世の中の被害者なので、罰するのではなく擁護に動きそう。






死刑を廃止した国では、死刑復活を望む声を出してる人もいる。しかし、彼らも大事な人間なのです、思いやりを持ちましょう、などの人道的な言葉こそ最強なので、恐らく丸め込まれている。








ドバイでは、厳罰化で犯罪が抑えられている。他の国でも厳罰化で良くなったところもある。厳罰化とは、何も法律だけの話しではなく、監視体制やその他色々含めるべきだと思うのだが、法律上の罰則メインになっている。円で考えるよりは点になってる気がする。










どんな良い商品を出したとしても、それを知るものがいないと意味がない。法律も同じで知る者がいないと抑止力になるわけがない。







飲酒運転は周知を徹底された。関心が高いので一般人も飲んではいけないよと注意した。他のことに関しても同じで、そのようなことはしてはいけないよ。やめようよという流れになるのが本来の姿のはず。昔の日本人はそれが今よりできていた。






しかし、今それをやればキレられるだろう。では、そうならないようにするにはどうするのか。そこは法律ではなく教育である。






商品を売るためには戦略が大事になる。その戦略の中には商品以外のことも当然ながら含まれる。






法律も同じで、法律以外の事をからめて考えないといけない。そこには人々の関心、道徳やモラルなどの教育も必要なはず。点ではなく円である。







しかし、心の教育は今の日本では行われない。心の教育は戦後アレルギーが大きすぎるし、復活させたくない勢力がいる。







実は、その復活させたくない勢力の中には弁護団体が含まれる。詳しく書かないけど、もしかしたらスケート連盟にも負けないほど染まってるかもしれないと、見る人が見ると思っているはず。




個人的な見解としては、河野洋平ら内側の人達に匹敵するほどに、向こうの戦力になる思想←リンク や人材が隠れている場所である。隠れているので普通の日本人にはわからない。でも、保守の人なら同意してくれるだろう。







GHQが現在の無抵抗主義、自虐史観に大いに関係したが(見えない形で日本人の防衛意識を下げ、愛国心を無くしたり、他にも様々な見えない形で日本弱体化に使われている)



現在の法曹界も例外ではない。
例外どころかど真ん中で関わってる。←リンク関わっているということは、お花畑流無抵抗主義が平和主義として語られているように、俺から見るとハテナが沢山ある。




ただ、ここではそのハテナはあまり語らないが、この理論に染まれば染まるほど、無抵抗平和主義のように、俺から見たら残酷だったり、おかしな発言や行動をするようになるはず。


無抵抗主義の残酷さについて
http://ameblo.jp/ganbaredameomajide/entry-11761274676.html








そのハテナのまま厳罰化になってるので、厳罰化には意味がありませんと言われても、今の日本の仕組みならそりゃそうだとしか思わない。逆にこれで良くなるのか?と思うだけでなく、俺から見ると良くなるどころか悪化しかねないものにさえ見える。






毎度でる厳罰化に意味なしには盲点があると思っている。重大犯罪は減らないから意味がないだ。減る減らないだけが問題点になっている。





でも、俺は減ると思ってるし、使い方、伝え方、監視の仕方
簡単に言えば運用の仕方だと思うけど、とりあえず減らない前提で話しを続ける。





罪が軽いと思ってる被害者がいる。それが重くなるだけで今より救われる人がいる。これだけでも被害者にとっては有益な意味が発生している。





軽いと思っていた罪が重くなった。もっと罪をつぐなって反省してほしかった。罪が重くなった、有難うと言う人は絶対にいる。




しかし、そういったものは考えられないか軽視される。彼らにとって加害者こそ世の中の被害者になるので、彼らを擁護し、真人間にする事に重点がおかれるからだ。



ここからは司法側は、悪い人は世の中の被害者で、保護しなければならないというのを念頭に読んで欲しい。



悪になった人は一様にひどい扱いを受けたからそうなったと思われがち。





しかし、そうでない例外がいる。むしろ、俺の主観ではそうでない人のほうが多いようにさえ思う。






彼らの目線では、日本人がろくに他国の文化や習慣を勉強をせず、言葉も話せず他国で孤独になり、むしゃくしゃして犯罪をおかしたとしても、それはもてなさないその国のせい。※外国人だとわかりにくいので日本人に直してます。







俺からすれば他国の文化や言語もろくに勉強をせず、むしゃくしゃして犯罪を犯す、向上心と自制心のないこの人が悪いだけ。国が用意しなくても、自ら向上の機会はいくらでも作れる。







社会に出るが次々失敗し、ホームレスになった人がいても世の中のせい。





俺からすれば、次々失敗する中で、反省と改善をしないこの人のせい。もうだめだと思うか、だめだと思ったところを改善点として向上の力にするか。捉え方でもだいぶ違う。





全てがそうではないが、俺はほとんどが自己責任だと思っているが、その真逆の理論のはず。






世の中のせいにすることと、神様のせいにすることはとても似ている。






どちらも直接行為をもたらしたことがない。神や世の中が殴れといった事がない。しかし、当人にとっては、まるで直接行為をもたらしてる存在だ。






でも、直接行為をもたらした事はない世の中だが、救いの場所は用意されている。今の日本には、自らが望めば職も知識も手に入る環境がある。日本は日本人が思っている以上に恵まれている。







国に頼らなくても、その人自身が魅力ある人なら助けてくれる人もいる。必要なのは自分自身の向上心だ。俺は自らの気持ちの問題だと思ってるが環境のせいにされる。






自分のせいにするのではなく、環境や他人のせいにして、反省を自己に求めない成長意欲のない人だから、自己実現が出来ない。自分のせいではなく、他人のせいにして他者を責める人だから人が離れる。






いい環境にいないとへこたれるほど打たれ弱いから続かない。その人に良いものを与えれば、強さが鍛えられずますます弱くなっていく。何でもかんでも環境のせいにするのは危険な思想に思うが、この考えは司法や福祉の基本になってるように思う。




なんのさんより引用 韓国式の教育
まさにこれをやってるのが今の日本ではないだろうか。


ところで、子供を育てる中でとても理解ができなかった、韓国人風(?)教育方法があります。

一つはいうことを聞かせたいとき、「三数える間にやりなさい…イチ、ニイ、サン」といってやらなければ罰を与える方法。

そしてもう一つが、転んだりぶつかったりして子供が泣いたとき、その原因となった物…例えばつまずいた石とかぶつかった机とかを「この、悪いやつ、○○を痛くして、罰を受けろ、エイ、エイ」と言って叩くこと。


怖いから、叩かれると嫌だから、なぜそうしないといけないのかわからないながら従うけど、結局は何も変わってない。

自分が悪くても人のせいにして反省ができない。


これってどちらも自分で考えて正しく行動できない子供を作っているような気がするんですが…



人の心は変わりにくい。自分の心すら変えるのは困難だ。しかし、心に響くものがあれば一瞬で変わる。辰吉丈一郎は、人は一日で生まれ変わると言った。男子三日たてば括目して見よの言葉もある。





心が変わる例を挙げてみる。俺はド変態である。そんな不細工ド変態の俺に、ダメ男さん仕事見つかったら私のバ○ツあげますね^^と美女に言われたら、ウヒョーとやる気が出まくって仕事見つけるぞとなる。





環境が変わらずとも、その人の心に響くものがあれば、例え環境が変わらなくても、その人の心は変わる。いかに心を動かすかが大事だと思うが、それを考えた場合、今の仕組みは俺的にはハテナだらけになる。







ただのつぶやきなので、気がするや思うの連発だけど、とりあえず書きたかっただけ。別に結論も何もないですが、俺の中では無抵抗平和主義と似たものに見えていますが、救われてる人も実際にいるのでカテゴリーは政治のところに。






最後にハテナの部分を一個だけ。平和を作ることと、悪人を改善させるはイコールと思われてるが、似てるがちょっと違うと思っている。






なぜなら再犯率に見られるように、悪の改善を完全に行うのは非常に困難だからである。現時点では不可能と言ってもよいはずの数値が証拠としてある









困難なので、本来なら悪は改善しない場合もあることも念頭に対策をしないといけない。それを考慮しただけで、数値もだいぶ変わるはず。








しかし、それは悪との戦い方、防衛、防犯など、戦う気持ちを教えることに繋がってしまう。日本人にそれを教えるのは、GHQが封印した、強く優しく気高い大和魂と繋がってしまう。








悪に対する心構えは教えてはいけない。人を疑うのはよくない。信じることが大事なのである。




つまり無抵抗平和主義と同じように、一般人は無抵抗で彼らを受け入れることになる。






そして、無抵抗平和主義と同じように、相手にこちらの善意が届かない場合は、相手をこやしてしまうか、無関係の人が痛い目を見るだけの結果になる。





構図としてはリンク先の悪口はほうっておいてはいけないと非常に似たものになる。愛が届かない場合は危険な結果が待っている。
http://ameblo.jp/ganbaredameomajide/entry-11775106220.html




野放しで一般人が危険になった例が最近発生。こんなのも平気で世の中に出ます。仕組みおかしすぎ。



仮に改心していなくても彼らは野に放たれる。そして、犠牲になる人がいたとしよう。



彼らは、悪が改善するまでの犠牲は仕方ないのですと、愛に満ちた表情で、俺から見たら残酷なことを言う。


犠牲者を減らすことを考えているなら仕方ないとはならない。許さないになる。


しかし、知らずに犠牲者を減らすことではなく、悪人を減らすこと、悪人に良い環境を与えることにピントがあってしまうのがこの思考の盲点だ。


平和を作ることと悪人を減らすことはイコールではない。





しかし、人を信頼したという正義を行った側には、無抵抗主義同様罪悪感はない。




悪を信じ尽くしたという、慈善を行った満足感があり、犠牲者が見えていない。悪が改善してなくても防衛や用心をするのではなく、信じることと尽くすことこそ最良なのだ。※極端な例をあげてます。



無抵抗平和主義同様、信じること、お客様扱いすることが美徳とされ、結果として関係のない人が痛い目を見ることも無抵抗主義と繋がっている気がする。


悪いことはお金になる。楽しむ人もいる。彼らは悪いことをしてることは重々承知なのだ。でも金になるし、楽しいし、それがやめれない人がいる。やめれないのではなく、やめる気がない人もいる。そういった人に良い環境を与え、愛の大切さを教えても現在の仕組みでは
対応力は低いように思う。





最善なのは信じることだけではなく、悪の心の改善だけでなく、犯罪が起きず、犠牲者が出ないことが最善なのだと俺は思っている。




信じることが最優先されては宗教と同じだ。犠牲者を出さないことを最優先しないといけないのに、なぜか信じることが優先される。盲目的にその考えを信仰してしまってるのも宗教と変わらない。



犯罪による犠牲者を出さないことを考えた場合、信じることと同じくらい、信じないことも大事なのだ。それを用心や警戒、防衛と言う。しかし、信じることこそ最良ならそれは差別になる。





責任をどこに求めるか。というのは実は民度に大いに関わっている。




日本人は他国に類を見ないほど、責任を自己に求める民族であった。切腹に見れるように、この責任は己にあると自らの手で自死する。




苦しみの中でも表情を崩さずかっさばく。もがきくるみたい衝動の中でも己を律していた。






時には無関係と思えるようなものですら切腹をし自らの責任にしていた。切腹というのはただの死ではない。もがき苦しいことを自らの手でやるのだ。





こんなことは他国のどこの民族もまねできない。
GHQが封印した気高さ、強さ、自分への厳しさがあったからこそできたものだ。







部下が失敗しても私が責任をとるという上司がいた場合と、部下が失敗したら責任をなすりつける上司がいる会社。どちらの会社が成長するか。どちらの会社が安心できるか。





失敗を過剰に怒る上司をある社長は怒った。そんなことでは失敗を恐れて新しいものが作れなくなる。失敗を受け止める器がなければ会社は成長しない。私が責任をとる。失敗を恐れず新しいことに挑め。

※司法側の最終的な責任は罰則と信じることであり、失敗は犠牲を意味するのでちょっと意味合いが違うが、何かの参考に。

部下には失敗の反省を促しつつ、最終的な責任は俺がとる。そんな姿勢は素晴らしいと思う。もちろん部下の責任感も大事。自分を責める。しかし、同じように上司も自分の責任にする。




お前のせいだと責める人だらけの会社より何倍も成長しそうな気がする。これが部下が上司のせい。上司が部下のせいと他人に責任をなすりつけるだけでかなり変わる。負を引き受けるのと、負を外に向けるのは全く違う。






責任の持ち方というのは、信用にも繋がってくる。信用は顧客にも繋がる。見えないところで経済にも繋がる。それはその人の強さにも繋がり、他者を思いやる優しさにも繋がる。


つまり国の繁栄にも繋がっている。



優しく強くなければ、自己に負を向けるというのは出来ない。他者をせめ、他者の責任にしたほうがどれだけ楽だろう。しかし、それを良しとしなかったのが日本人である。



今の日本では、虐待がある家庭では貧しいからとか色々と理由をつけて、世の中のせいにされている。これは個人の思想ではなく、この国のルールのようなものと言っても過言ではないはず。※司法や福祉に関係ない一般市民は除く。




責任を自己ではなく、他に求める思想が蔓延していることはどういうことか。簡単に言ってしまえば、他国が驚愕し、真似できないと思っていた気高き自己責任の取り方、優しく強い大和魂を消すことにも、見えないところで役に立ってる。国は見えないところから徐々に弱っていく。それはモラルの低下、治安の悪化として姿をあらわしてくる。



どこかの国では何でもかんでも日本のせいにして渡せ、よこせ、俺が悪いのはお前のせいだとやっている。警戒を差別に変える。




しかし、日本のお花畑も全く同じで、あの人が悪いのは環境のせい、日本のせいと感じ、相手に渡し、もてなすことで解決しようとする。警戒を差別に変える。移民も満足な暮らしをあたえないから暴れると思い、移民に権利を与えろになる。つまり反日勢力や悪なる存在をもてなすことでも、見えないところで役にたつ思想になっている。


過剰に悪を信じることが正しいという思想は、国民の防衛意識を破壊するのに見えないところで役に立っている。




防衛とは悪があると思い備え、犠牲を減らすことだ。それを根本から否定する考えになっている。信じることが大事なら信じた時点で思考停止してしまう。それは洗脳と変わらない。信じることの他にも大事なことはあるはずなのに。


その結果が今のゆがみひずみを生みだした。日本にとってはゆがみだが、向こうにとっては富をもたらした。




俺の責任だ。俺が償うとならず、世の中が悪い。日本は何してる。これを事件を起こした側だけでなく、擁護する側も言う。俺にはとてもおかしく見える。





貧しい中でも自分を律し、世界が驚愕するモラルの高さを持っていたのが日本人である。貧しさは決して暴力の理由にはならない。



暴力は環境の問題ではなく、民度、心の教育の問題である。それは、貧しい人でも等しく受ける権利のある素晴らしいものであり、今の日本でも理解があればすぐにでもできるものだが、何度も言うようにそれを許さない勢力がいる。



その勢力には冒頭で言ったように、弁護団体も含まれる。教育、司法は見えないところで反日思想が繋がっている。




法律にはGHQが関わったと言った。乗っ取りも進んでると言った。詳しく書いてないけど、何か感じることがあっただろうか。これは俺がおかしいと思ってる部分の一部で全てではない。




今の日本は無抵抗主義のような、平和に見える言葉や思想の裏に、日本弱体化のワナが隠れている。そして多くの人は気づかずに平和のためにソレを行う。





洗脳は見えない程よい。そして、こういった理論は、心が純粋で、優しく思いやりのある人ほど染まりやすい。染まりやすいが、いったん染まればそこから抜け出すのは非常に難しい。




俺としては、このような心優しい人にこそ、これからの日本を担う存在になってほしいと思うのだが、覚醒する人はいるのだろうか。




責任を自己に求める人ほど優しくなり、強くなり、あらゆる面で改善していく。もっと相手を信じて、その人の環境ではなく、心に訴えてほしいと思う。







心の教育を施し民度をあげ、愛が通じない場合の対処も学び、防衛意識を高めることは、相手の悪意もくじき、犯罪を抑制する。




愛が届かない場合でも、まわりの防衛意識が再犯を抑える。見回りをきちんとしてる土地には、泥棒が少ないのと同じではないだろうか。まさに一石二鳥だと思う。




まとめ

極論を言ってしまえば、厳罰化が意味がないなら法律の意味もなくなる。なぜなら法律は刑罰で人を取り締まるものでもあるから。




法律をなくし罰則がなくなりました。世の中はどうなる?間違いなく今より治安が悪くなる。治安がよくなると言う人はさすがにお花畑にもいないでしょう。



俺は厳罰化は間違いなく意味があると思ってる。
でも、罰よりも道徳で人を動かすのが本当の国のあり方なのだ。それは過去の日本人が他国から驚愕されていたものであり行っていた実績があるものだ。まずは歴史に学びましょう。



法の力に頼らない日本
http://ameblo.jp/comm-cork/entry-11792794665.html




江戸時代の享保年間20年続いた時代
牢屋に収監された犯罪者の数は、いったい何人だったかというと「0人」です。
奉行所が仕事をしないでサボっていたからではありません。
牢屋に入れられるような犯罪を犯す者がいなかったのです。

たとえば江戸265年間を通じて、日本橋の見張りさえいない、現金送金のためのザルから、現金が泥棒されたという事件が、ただの1件も起きていないのです。
それが日本です。

  「外国人犯罪」 より