スピ系の人の記事を見ると善悪は本来無いと書いてあるのが多い。
善も悪も含めて一つであり、善しかなければ悪はなく
また悪しかなければ善はない。
例えば戦争では、一方は自分の正義のために他国を攻めたとする。
今実際に起きている問題にコレを照らし合わせれば、自分の宗教観のために敵国を滅ぼしたり、相手の宗教を否定し、自分の宗教を教えるのも相手側の正義や善意の場合がある。
正義の定義は国や人ごとに違う。
我々には信じられない価値観だが、領土を暴力的に奪ったり、違う宗教を信仰している人を殺すのは、彼らの中での正義なのである。
それを迎えうつ側は、自分を守るために相手を殺すこともする。
見方を変えれば正義はどちらでも成り立つ。
善悪ではなく、人の行いの一つであるというカテゴリーさえ成り立つ。
本来善悪はない。
その理屈は非常によくわかる。
我々が野生の猿の群れを見て、暴力的な猿がいたとしても、それを悪だと見ることはない。
猿の行いの一つである。
肉食獣が草食動物を襲うのも同じようなもので、動物の一つの営みに過ぎない。
しかし、俺はこう思う。
スピ系に偏った人は、あまりに高い目線から物事を見すぎている。と。
確かに俺が感じる世界観でも本来善悪はない。
全ては一つ。
しかし、それは上にピントを合わせた場合である。
上というのは、神を感じる領域というか言葉では説明しにくいが、とにかくそんなところ。
ところが、実社会でそんなことを重視して生きていれば、今の世の中に対応できるわけがない。
今の世界では悪意の一方通行は絶対にある。
悪いことをしていないのにいじめられる。殺される。
助けたのにこれでは足りないと因縁をつけられる。
夜道で襲われ慰み者にされる。
現在の人間界は、スピ系に限らず、善と悪の判断が出来ていない。
残念ながら完全な悪人も絶対にいるのに、それを認めない仕組みが出来上がってしまっている。
正しい判断が出来ないから対処も間違えることになる。その結果、この世は更なる混乱に陥る。
今まで見なかったドス黒い部分も真摯に見つめ、悪の本質を見ないと対処できるわけがない。
成功哲学では嫌なことは見ないことが勧められていたりする。
自分の居心地の良い環境を作るのが大事だと言ったりもする。
しかし、居心地の良い安全地帯でスピ系の心地よさを感じているのと
地獄の中でも己の善性を失わずそれを行うのは、全くの別物である。
地獄でも善性を失わないには「強さ」が必要だ。
闇でも光れる強さを持ったこの感情こそ、本当の優しさだと思う。
優しい人は強い人。俺はそう思う。
キリストがいた時代は、今以上に絶望が身近にあった時代だったはず。
荒野の中、殺人も珍しくなかった時に己を律し、善性を貫いたキリストは本当に凄いと思う。
こういったキリストの姿勢こそ、本来のスピ系の本質のように思う。
嫌なものを見ない、考えないのは、俺から見れば卑怯者と紙一重だ。それは嫌なものを見て見ぬふりをする人と変わらない。
見ないその先に犠牲があるかもしれないのに、彼らはその犠牲を見ようともせず、場合によっては善人の犠牲を考慮しても悪を救おうとし、悦に浸ることが出来る。
俺がお花畑と言っている状態がまさにコレだ。
行き過ぎた善人と極悪人が世の中を壊していく。