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エルトゥールル号事件 1890年

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エルトゥールル号事件の話をあちこちの本から以下引用しました。

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トルコの軍艦エルトゥールル号が、日本からの帰国の際、和歌山県串本町沖で暴風雨に遭い座礁し、587名が死亡、生存者69名という大惨事になった。この暴風雨のなか、懸命な救助を地元民が繰り広げ、一生懸命介護し、亡くなった人々は丁重に葬られた。生存者は明治天皇の命により、軍艦2隻でトルコに送り届けられた。
この事件に同情した山田寅次郎という民間人は、遭難者支援の援助をするため、全国を歩き回り義捐金を集めトルコに渡る。トルコ側はとても感激し皇帝自ら寅次郎に会った。
寅次郎はトルコからの要請により、トルコにとどまり日本語の教師になる。この教え子の中には、将来の初代トルコ大統領で建国の父といわれるケマル・アタチュルクがいた。アタチュルクは、一連の日本と明治天皇の行いに感動し、机の上に尊敬する明治天皇の肖像を置いていたという、逸話がある。折りしも帝国主義真っ盛りの頃、「他国の不幸は自国の幸福」といわんばかりの時代に、当時類を見ない誠実な、そして純な日本人のこれらの行動が、トルコ人を非常に感動させた。

この話には驚くべき「つづき」があります。
エルトゥールル号事件から時代は100年ほど下り、1985年のことです。イラン・イラク戦争が始まり、イラクのサダム・フセイン大統領が、「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機があればそれを打ち落とす」と発表しました。日本人はイランに仕事などで来ている人が大勢いたので大変驚きました。すぐさま空港に向かい脱出を図りますが、各国の飛行機会社は自国民を優先し日本人は、はじき出されてしまいました。さらに他国政府は救援の飛行機を救急で出しましたが、日本は対応が遅く、また安全が確保できないとして救援機を飛ばすことをしませんでした。日本人は窮地に陥りました。刻々と時間はせまりこのままでは戦争の現場に取り残されてしまう。誰もがそう思いました。その時、なんとトルコの飛行機がやって来たのです。そして日本人を乗せてイランから飛び立ちました。タイムリミットの1時間15分前のことです。この飛行機はトルコ政府が日本人救助のため出したものでした。まさに危機一髪、危機を顧みず救出してくれたのです。
当初日本は、なぜトルコの飛行機が飛んできて救出してくれたのか、理由がわかりませんでした。
しかしトルコ国民は100年前のエルトゥールル号の救出と日本人のその後の誠実さとその恩を忘れず、日本人に恩返しをしてくれたのでした。
「エルトゥールル号遭難はトルコの歴史教科書にも掲載され、私も幼いころに学校で学んだ。子どもでさえ知らない者はいないほど歴史上重要な出来事だ」
その救出劇の際、駐日トルコ大使のネジャッティ・ウトカン氏が述べた言葉です。
が、さらにこの話は続きます。
1999年にトルコ大地震があった際、助けられた日本の企業の人々はこの恩は忘れてはいけないと、義捐金を集め、トルコに寄付したのでした。
まさにこれは、+の連鎖で、よい行いにはよいことが返ってくるという、因果応報ともいうべきものでした。
トルコは大の親日国です。
その理由は
1・エルトゥールル号での日本の真摯な態度
2・10回以上の戦争をしてきた宿敵ロシアを、日本が日露戦争で打ち負かしてくれたこと
3・敗戦後、経済大国へ発展した日本への尊敬、などがあげられます。

波田野 毅「日本賛辞の至言33撰」 p240~  

世界の偉人たちが贈る日本賛辞の至言33撰



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イラン-イラク戦争のとき、世界各国は現地の自国民を救出するために飛行機を送った。
勿論のこと戦場であるから、大半の国が軍の護衛機を派遣して軍人を同行させていた。しかし先進国の中で唯一、とある国だけが「民間機では危険だが、軍隊を海外へ出せないから」といって救援機を送ろうとしなかった。
その唯一の国とは日本である。
他国の救援機は当然ながら日本人まで収容しようとしなかったのだが、その時トルコただ一力国だけが日本人のために救援機を増便してくれた。
トルコがこのように親日国となったのは、日露戦争における日本の勝利に由来する。
トルコは日露戦争以前にはロシアに十九回も侵略され、その内の十八回はトルコの敗戦に終わり、その都度ごとにウラル、カフカズ、黒海沿岸などをロシアに奪われ、ロシアの脅圧に苦しみ続けてきた国である。
それ故にトルコは日露戦争の日本の勝利を心から喜び、トルコの英雄ケマル・パシヤは日本を讃え、人々はトルコの通りの名や子供の名前にトーゴーやノギと命名し、今でもトルコに行けば日本人というだけで大変親切に接してくれる。
トルコのヌレシュ元駐日大使はその在任中は毎朝欠かさず明治神宮に参拝しており、トルコが親日的なのは、現在の日本ではなく百年前の日本を尊敬しているからに他ならない。
トルコの救援機で脱出した当時の駐イラク大使は「私は”戦前の日本”に助けられた。謝罪外交や援助外交など何の役にも立たない」と周囲に漏らしたと伝えられている。
カネで平和は買えないことと同様に、カネで友好は買えないという現実、
日本が国益外交への転換にあたって先ず最初に必要なのはその現実に気付くことなのだ。

日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略 p173~

日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略


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軍艦沈没で育まれたトルコとの友好

トルコでは社会科の教科書に必ず紹介されている有名な事件で、日本とトルコの有効の証として、百二十年の時代を経た今もトルコ国民に記憶されている。
(中略)
出航から二日たった九月十六日の夜半、紀伊熊野灘に差しかかったエルトゥールル号は、北上中の台風の中心に入り込み、紀伊大島の樫野埼付近の岩場に座礁。
そして、船底から浸水して機関が蒸気爆発を起こし、午後九時三十分ごろに沈没した。
この遭難事故で生還したのはわずか69名のみ。
提督をはじめ約五百名もの命が失われた。
外国船の遭難を知った地元住民は、夜を徹して生存者の救助と手当てに尽力した。翌朝には地元の尊重が関係官庁に連絡し、医師の派遣を要請、さらに各戸一命の人手を出すように指示し、多くの村民たちが生存者を看病した。
(中略)
その後生存者たちの体力が回復すると、明治天皇は、軍艦比叡と軍艦金剛の二艦をオスマントルコに派遣し生存者たちを母国に送還することを命ぜられた。
生存者69名を分乗させた二艦、明治二十四年(1891)一月にイスタンブールに到着した。盛大な歓迎を受けたことはいうまでもない。
しかも事件の翌々年には、民間で集められた義捐金が届けられた。
しかし、日本とトルコの友情の物語にはまだ続きがある。
遭難事件から九十五年の月日が流れた昭和60年(1985)のことである。
イラン・イラク戦争の最中、イラクのサダム・フセイン大統領は三月二十日午後二時(日本時間)以降、イラン上空を飛ぶ航空機すべて撃墜する旨の声明を発した。
各国は軍用機や民間機のチャーター便を派遣して自国民の保護に努めたが、日本は自衛隊を海外派遣できないうえに、政府が日本航空に救援機の派遣を求めるも、同社の組合が安全性などを理由に反対したことで、日本人の保護ができない事態に至った。
そこで、イランに駐在する野村豊大使が困り、在イラン・トルコ大使のイスメット・ビルセル氏に相談したところ、なんとトルコが救援機を派遣して日本人を救出することになったのである。
このとき、トルコ大使は
「トルコ人なら誰でもエルトゥールル号遭難事件の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょう」 と語ったという。
そして、ほんとうにトルコ航空の飛行機二機がテヘランに派遣され、
215名の日本人は全員救出、トルコ経由で日本に帰国できた。
日本人を乗せた救援機がイラク領空を抜け出したのは、期限の一時間十五分前。
少し遅れたら、撃墜される可能性もある危険な飛行だった。
救援機の派遣を決めたトルコのトルグト・オザル首相(当時)は、
他国民を助けるために自国民を危険にさらす決断をしたのだ。

竹田 恒泰「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」 P136