「支那」とはただの地名です。イエロージャップというような蔑称と同じだというのは迷信です。
中国人は「支那人」と呼ばれると不愉快だと言うが、他の民族がチャイナ(シナ)と呼ぶのはOKで、日本人にだけ中国と言う国名を強要するのは支那の自民族逆差別に他ならない。
これは説明して誤解を解く必要がある。
混乱の責任は3つあるという。
1.日本にだけ「中国」と呼称せよと強要する支那。
2.その言いなりになってマスコミに「中国」を通達で強制した当時(昭和21年1946年)の外務省とそれに唯々諾々として従ったマスコミ。
3.自称進歩的知識人はいわゆる「侵略戦争」への反省や民族差別解消(民族差別でもなんでもないのに)の名目で歓迎した。
逆に、中国という国名には「世界の中心の国」という中華思想が含まれており、とうてい認めることができない。
「支那」呼称についてはこちらで http://
支那人の民族状況と民族概念
シナ人(90%の漢族)と55の非シナ民族(少数民族)で構成されています。
この少数民族というのは意図的な蔑称です。まるで独立する資格がないかのような言い方です。
だって、少数と言ってもなかには1千万民族が2つもある。
これは北欧諸国と同じぐらいの人口。
かつてチベット人は600万人いた。600万人もいたのに少数民族扱い。
スウェーデンが人数が600万で少数だからといってソ連に吸収されてしまうなんてことはありえない。
実際、コソボだって200万人程度で独立国になれたのに…。
広い意味での民族と、狭い意味での民族があり、
全体として中華民族、個々を差して○○族という二重の構造になっています。
だから、チベット人は中華民族(中国人)だし、中国人としてチベット人を「同胞」という言い方をする。
中華民族としては統一されており、統一的他民族国家であり、中華民族は全体として家族なんだという家族国家観なのです。
日本や韓国は単一民族国家です。
しかし、アサヒやサヨクは「単一民族ではない」と言ってる。
これは定義を厳しくしすぎです。
日本が単一民族国家でないというなら、世界に単一民族国家はなくなります。
中華民族主義=シナ民族主義の論理とその事実
チベットは、共産主義というイデオロギーによる侵略ではない。
中華民族主義、支那侵略主義とは、侵略を正当化する思想なのです。
ここで、孫文の発言の変節を考えてみます。
孫文は1906年には漢族だけの独立を主張していたのに、
1912年には漢満蒙回蔵をみな一緒であり、分かれ独立してはいけないと言い出した。
1921年孫文は「漢民族を中心として、漢満蒙回蔵を全部我等に同化せしむると共に、漢満蒙回蔵の五族の同化を以て一個の中華民族を形成し、一つの民族国家を組織し…」と言った。
当時軍閥が割拠しており、中国はチベットを支配していなかった。
1924年孫文「中国の民族はと言うと、中国民族の総数は4億、その中には蒙古人が数百万、満州人が百数万、チベット人が数百万、回教徒のトルコ人が百数十万交じっているだけで、外来民族の総数は一千万にすぎず、だから、四億の中国人の大多数は、すべて漢人だと言えます。おなじ血統、おなじ言語文字、おなじ宗教、同じ風俗習慣をもと完全な一つの民族なのである。」
まず、外来民族ではなく、もともとそこにいた民族です。または、迫害されて追いやられた民族。これは数字もいいかげんですね。言葉も宗教も風俗も違うし。
これは、自分以外の民族を全く無視しているし、いないのと同じだと言ってます。
民族として生きていく権利を認めず、消滅していくべき存在だと言ってる。
本音は、中華民族=シナ人のみ。中国人=漢民族だけ。
建前ではあくまで平等で、本音は併合・吸収・消滅なのです。
孫文ははっきりと何度も言ってます。
「民族主義とは何か。それは漢民族中心主義だ」
民族浄化は昔からやってきたこと。民族浄化というよりも、民族抹殺です。
ジェノサイドやホロコーストが着実に進んでいる。
建前では他民族を尊重すると言う。しかし例えば満州人の場合、満州語を使えるのは100人だけ!/1068万人中
建国してずいぶん立つのに、軍事優先で義務教育も徹底しておらず、実態は民族文化なんか尊重していないのです。
更なる侵略へ
チベット問題は消滅するでしょう。みんながよく言う「対話による解決」はないのです。
対話はバランスのとれた間で成立する。巨大暴力団と一市民では成り立たない。
もし成り立つとすれば一市民の方が一方的に屈服すること。対話で解決したとしたら、解決じゃなくて、チベットの消滅です。
そうなれば世界が侵略を公認したことになるでしょう。ますます中国は侵略を続けるでしょう。
例えば、ヒトラーの侵略を世界が公認したことがあった(1938年ミュンヘン会談)その後ヒトラーはさらに侵略を続けたではありませんか。
日本の未来
中国にとって、周辺国に「少数民族」と同一民族が存在するという意識がある。
資料
「中国に『大和族』誕生」(毎日新聞1983年12月11日)
中国の民主諸党派の一つ、中国農工民主党の中央委員候補に選ばれた元日本人の山口和子さんの民族名として「大和族」が「人民日報」で使われたもの。
「大和族」が少数民族として正式に認知されたのはこれが初めて。
…かつて日本も朝貢貿易をしていました。そういうかつての主従関係が侵略するにあたって正当化する理屈になるでしょう。
資料
安田喜憲「龍の文明・太陽の文明」(PHP新書170 2001年)166頁
二十一世紀の開幕とともに、北京に天安門・故宮とならんで、もう一つの名所がオープンした。
それは中華世紀壇と名付けられた円筒形の巨大なモニュメントである。(中略)
その円形の壁には、漢民族から始まって、台湾の高砂族(高山族)にいたるまで、五十六の民族のシンボルが彫造されていた。(中略)
そして最後の五十七番目の壁にはなぜか空白になっていた。
同行した中国の友人が、笑いながら冗談交じりに「先生ここにはいずれ倭族が入るのですね。それでいいじゃないですか」と言った。…
日本の精神的な侵略は進んでいる。政治家は北京に頭が上がらない。
これからは中国人の人口侵略が先にくるでしょう。チベットの時は軍事侵攻が先でしたが。
ここ8年で中国人は2倍も増えています。逆に韓国人は減っています。
それに対する日本人の警戒心はありません。
先日、新聞に(注・どの新聞だったかは失念)、「日本の繁栄を維持するために中国人と韓国人を迎えよう」と書いてあった。
少しづつ自然に増えていくならまだしも、短期間で日本に入ってきても日本になじむわけが絶対にない。自分達だけで寄り集まるでしょう。
逆に日本人を同化しようとするでしょう。それでは日本そのものが失われてしまう。
(アメリカに行って日系人となった日本人は、民族意識を無くしているのですが、シナ人、朝鮮人は外国へ行って外国籍になりながら、いつまでも民族意識を保持し続けます。)
これは安保条約でも防げません。アメリカは日本を見捨てるでしょう。
アメリカは悪徳警察官なら、シナは暴力団で、二人は癒着しているのです。
中国にとって日本とは侵略の対象なのです。
李鵬は「20年後に日本はなくなる」と言いました。
自分達が侵略併合してやると言いたいのです。
現実に、中共は侵略国家であり、シナ人は侵略現行犯民族です。
中共の領土の半分以上は、モンゴル・ウィグル・チベット三民族の土地を、侵略・併合したものです。
侵略国家がさらなる侵略に乗り出すことは、必然中の必然であります。
いま中国にとって、日本は利用価値があるので、脅したりなだめたりすかしたりしています。
しかし中国人の感覚としては「しょせん日本などは中国の少数民族的な存在でしかない」という感じなんです。
なので、日本人はいずれ支那人に吸収、同化され、消えていく存在なのです。
4/2の朝日新聞に映画「靖国」の広告が載っていました。
田原総一郎と映画監督のLI YINGさんの対談がありました。
一部抜粋です。
田原「この映画には、日本人が見たくないシーンがたくさん出てきます。
でもそこから目をそらしてはいけない。きちんと見つめなくてはならない。
同じ過ちを犯さないためには、過去をきちんと総括する必要がある。残念ながら日本はそれができていない。」
…まだ反省が足りないと言うのでしょうか?笑 日本ほど反省しまくっている民族はありません。
Li「人間は自分に都合のいいことだけ覚えていて、都合の悪いことは忘れてしまいます。」
…それ中国のことでしょ!
この映画に関して「見ずに批判するな」という声がある。
しかし「新しい歴史教科書」問題の時に多くの人は読みもせずに発行前から反対していたのではないでしょうか。
ほんと都合がいいですね。
Li「いいことだけでなく、相手の悪い点もきちんと指摘してあげる。それが本当の愛だし、本音で話すところから、本物のつきあいが始まるのだと思います」
…大賛成です!笑
みなさん、中国人に会ったらこう言って下さい。
「支那人は侵略現行犯だ」「支那人は侵略をやめろ」
現在、支那のことを「中国」と言い換え、「支那」という呼称が「差別用語である」というおかしな主張する人が少なからずいます。が、わたくしは逆に「支那は断じて差別語にあらず」「逆に『中国』という語こそ不用意に用いるべきではない」と信じております。このため、私のページでは「現代の中華人民共和国」の略称としてのみ「中国」を用い、それ以外の通時代的・地域的・文化的な呼称はすべて「支那」を公然と用いています。
理由は以下のとおりです。
本来「支那」は、支那大陸を初めて政治的に統一した王朝・「秦(シン)」がインドに伝わって訛り「シナ」となって、支那を指す総括的語彙とされたもの。それがわが国にも古代に伝わり、また別に西洋に伝わって「China」「Sina」と呼ばれたものが再び江戸時代末期に再輸入された語である。「支」も「那」も「シナ」の音を当てはめただけで、特に意味を持っていない(逆に朝鮮・支那人が日本を侮蔑する「倭奴」「鬼子」「チョッパリ(豚の足の意)」は字義・語義から言っても差別的である)。それどころか、「震旦」「脂那」「至那」などのいくつかの候補の中から支那人自らが選び出した呼称でる。従って西洋人が「China」「Chinese」に何ら侮蔑的意味を込めず普通に呼んでいるのと同様、「支那」の語の使用にも何ら他意は含まれていない。
そもそも「中国」とは日本国内に於いては、わが国の山陰・山陽地方を合わせた地方名である。自国内の地方名と外国の名前が重なった場合、自国内の呼称を優先させるのは、普通の国であれば当然である。たとえば「中国で大地震」などという表現は、誤解を生じやすい。日本の地方名と外国の地域名を区別する意味からも「支那」を使う方が便利である。
百歩譲って「中国」が「中華人民共和国」もしくは「中華民国」の略称だと認めても、辛亥革命以前の、あの地域を指す呼称としては全くふさわしくない。通時代的に用いる呼称としては、欧米でも「China」が用いられており、「China」と同義の「支那」を用いるのがふさわしい。
学術・文藝分野でも「中国」呼称はあまりふさわしくない。「古代中国文化」という表現は現在そこにある国名を無理に使っている点で「古代カナダ文化」と呼ぶのと同様に滑稽である(呼ぶなら「北アメリカ文化」であろう。「アメリカ」はUSAを指す国家名であると同時に地域を指す汎用的な呼称である。私は両者を区別するためUSAのことは「米国」と呼ぶ)。また、「中国」という国名に関しては相当にイデオロギー的側面(国家承認の問題、自由主義と共産主義の問題、中華民国と中華人民共和国の正統性の問題)を持つ政治臭漂う言葉であるため、文学作品(歌・句・詩など)にも合わないし、歴史叙述でも論者の立場を縛ってしまうため、使用しにくい。
日本国内には「多くの中国人が『支那』と呼ばれるのを嫌っている」という怪説があるが、全くのウソである。現在の中国人の多くは「支那」が差別語であるとは感じていない。日本国内で生まれた迷信である。それ以前に、日本で自分たちの国を「支那」と呼んでいる人がいるということ自体ほとんどの人は知らない(考えてみれば当たり前の話で、英国民5900万人の中に自分たちの国が日本で「エ-コク」と呼ばれていることを知っている者がどれだけいるか)。中国人口13億人の中に「支那」という呼称が日本で用いられていることを知っている者はたかだか0.1パーセント未満しかいない。その中でも「差別語である」と主張する者はもっと少ない。そんなごく少数派の都合に合わせるのは無意味である。
現代の中華人民共和国で最も権威ある国語辞典「漢語大詞典」によれば、「『支那』は、『秦』の音の訛りであり、古代インド・ギリシャ・ローマ・日本などがわが国を呼ぶ名である」と書いてあり、蔑称であるとは一言も記されていない。むしろそこに引用されている参考文献には「単なる名称であって別段の意義はない」と明記されている。中国国内には「支那」を差別的呼称とする一般的な通念は存在しないのである。
確かに戦前(昭和5年)、中華民国政府は大日本帝国に対し、「支那」呼称をやめ「中国」と呼ぶように要求し、日本政府もこれを受諾したが、あくまで国家間の外交文書の中で国家名を指す場合のものである。国家名以外の文化・学術分野で「支那」と呼ぶことには何の支障もないし、日本は中華人民共和国と違って言論自由の国であるから、政府が決めたとて国民個人がそれに従う義務もない。また、あくまで上記要求は中華民国政府外交部からなされた要請であり、中華人民共和国政府との間の約定ではない。
いかなる国民も、他国・地域の呼称について当事国から強制されることなどない。假に中国政府が日本国民にたいして「中国」呼称を強制しようとも、従う義務は全くない。主権侵害である。まして、中国政府がそのような強制をしているわけでもなく「支那呼称を嫌う中国人がいるらしい」等という不確かな情報を元に呼称をねじ曲げようとするのは論外である。
「現在、中国は『支那』と名乗っておらず、『中国』と名乗っているのだから『支那』を使うべきでない」という言説も耳にするが、この主張には全く説得力がない。第一、この理屈では中国成立前の清朝以前の歴史を語ることができない。第二に、その国の自称を日本でも用いるべきというなら、メキシコは「メヒコ」、ドイツは「ドイチュ」、ハンガリーは「マジャールオルザーグ」、フィンランドは「スオミ」と言わなければならないが、わたくしはそのような呼称を普段から使用している日本人に、いまだかつて会ったことがない。中国だけ特別視するのは逆差別である。
現在「中国」呼称を用いる人たちの間には「中国人」というと「漢民族」を指すのと大差ない意識があり、現状と甚だしく異なる。中華人民共和国は55の民族からなる国家であり、「中国人」と呼ぶことは漢民族以外の54の民族の自尊心と主権意識を損なうものである。またこれら諸民族を含めて「中国人」と言うならもっと無礼である。これは不法な手段で強制的に「解放」した満洲・チベット・東トルキスタン・内モンゴルなどの主権を「古代以来わが国固有の領土」と捏造し、反対勢力を武力弾圧する中国共産党政府の主張を全面的に認めるものであり、人道的・人権的に大問題である。これら虐げられた人々を一緒くたにまとめて不用意に「中国人」と呼ぶことは、1959年に突如不法占領され、以来40年間に130万人以上も虐殺されたチベット人をはじめとする中国国内の54の民族の誇りを傷つける蛮行である。
そもそも漢語で「中国」という語の本義は「わが国」「世界の中心の国」という意味で、外国人が支那をさして呼ぶにはまったくふさわしくない。江戸期の学者の文章には、逆に日本をさして「中国」と書かれている例もある。また、「中国」は世界の中心であるとの誤った概念(華夷思想)から、支那歴代皇帝に対して諸外国が臣下として呼んだ例もある。そのため逆差別となる恐れもあり、「支那」の方が、より客観的である。
「中国人」みずからが「支那」「Sina」と名乗っている。自らをさして「支那」と名乗る例は古く唐代から始まっており、近代中国の父・孫文や魯迅も自ら「支那人」を称している。また、現在でもインターネット上でも「Sina.com」などのメジャーサイトが存在する。これらは誰かから強制されたわけでも自ら卑下して名乗ったわけでもない。自らを「支那(シナ)」と表現することに客観性があると認められているからである。
「かつて戦前の日本人は『支那』を蔑称として用いていた」という言葉も聞くが、これもウソである。現代の人間が例えば「大村は使えない奴だ」「花田は頭が悪いんじゃないか」というとき、「大村」「花田」という語自体に侮蔑的意志があると感ずる人はいないだろう。話者が大村氏・花田氏をどう思っているかと、その呼称が侮蔑表現かどうかは何ら関係はない。戦前、支那人を軽侮した日本人が一部に存在したことは確かだが、それをもって「支那」という語を侮蔑表現として使用したとするのは暴論である。
「たとえ少数の人でも差別的・不快に感じる人がいるのだから使うべきでない」という意見もしばしば耳にするが、説得力がない。逆に、わたくしのように不用意な「中国人」発言を不快に思い、「支那」という伝統ある言葉を無くそうという動きに不快を感じる向きも少なくない。そういう人たちへの配慮が考えられていないからだ。この手の論議は「言葉狩り」と呼ばれる確信犯的な言語破壊行為の便法として使われるが、世の中に差別語などない。差別する人間がいるだけである。いたずらに語を削減して臭い物に蓋をするのは偽善である。