スポンサードリンク

元ニート不細工コミュ障だめ男が政治を語るブログ

日常記事は別ブログで書いています。ここは政治用にしました。

スポンサードリンク

環境のせいを肯定した時、あなたも残酷に染まる。3

スポンサードリンク

敵が最も恐れるのは過酷な困難に立ち向かい自ら道を切り開く人です。

 

ご先祖様はそれをやってのけました。

 

 

外国人が見た日本。貧しいが高貴である。
 

安政元年11月4日(1854、12、23) 安政大地震

ペリー提督の記述

 

地震によって生じた災禍にも拘はらず、日本人の特性たる反撥力が表はれていた。その特性はよく彼等の精力を証するものであった。彼等は落胆せず、不幸に泣かず、男らしく仕事にとりかかり、意気阻喪することも殆どないやうであった

 『ペルリ提督日本遠征記』四 土屋喬雄・玉城肇訳 岩波文庫

 

 

1866年 横浜大火

 

日本人はいつに変わらぬ陽気さ暢気さを保っていた。不幸に襲われたことをいつまでも嘆いて時間を無駄にしたりしなかった。持ち物すべてを失ったにもかかわらずである。

日本人の性格中、異彩を放つのが、不幸や廃墟を前にして発揮される勇気と沈着である。

 『江戸幕末滞在記』 エドゥアルド・スエンソン


 

 

 

1876年 東京大火

 

日本人とは驚嘆すべき国民である!今日午後、火災があってから36時間たつかたたぬかに、はや現場ではせいぜい板小屋と称すべき程度のものではあるが、千戸以上の家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいる。

 『ベルツの日記』 エルブィン・フォン・ベルツ

 

 

大正12年9月1日(1923年) 関東大震災

 

地震の日の夜、私が東京と横浜の間を長時間歩いているとき、あるいは生存者たちが群れ集まった巨大な野営地で過ごした数日間、私は不平一つ聞かなかった。

廃墟の下に埋もれた犠牲者たちの声も「助けてくれ!こっちだ」というような差し迫った叫び声ではなかった。「お願いします」という慎ましい懇願の声だった。

 『朝日の中の黒い鳥』 ポール・クローデル

 


 

1943年秋 パリの夜会に招かれたおりのスピーチ


 

私がどうしても滅びてほしくない一つの民族がある。それは日本人だ。あれほど古い文明をそのままに今に伝えている民族は他にはない。日本の近代における発展、それは大変目覚ましいが、不思議ではない。日本は太古から文明を積み重ねてきたからこそ、明治に入り欧米の文化を急速に輸入しても発展できたのだ。どの民族もこれだけ急な発展をするだけの資質はない。しかし、日本にはその資質があるのだ。古くから文明を積み上げてきたからこそ資格がある。彼らは貧しい。しかし、高貴である。

        ポール・クローデル(1868~1955)

 

 

 


 

ヨーロッパ人と異なり、彼等は悲嘆や不平、あるいは窮状を語っても、感情に走らない。(略)決して自分の苦労や不幸や悲嘆を口にしない。(略)彼等は常に強い勇気と明快な表情を示し、自らの苦労については一言も触れないが、あるいは何も感ぜず、少しも気にかけていないかのような態度で、ただ一言それに触れて、あとは一笑に附してしまうだけである。 

 『日本巡察記』 アレッサンドロ・ブァリニャーノ(1579年)




 

彼らは誇りが高く面目を重んずるので、名誉に関することで簡単に生命をすてることもいとわない。同様に、自分の保護と援助の下に身をおいている者のためには、無造作に、わが生命を賭ける。

彼らは死に臨んで決然とした態度を示して冷静な気持をあらわすのである。

   『日本教会史』 ジョアン・ロドリゲス(1500年代末)

 

 

 

 黄 文雄氏の寄稿文より抜粋

 

環境のせいが蔓延すればこのような行動はできなくなるはずです。
 




犯罪者などが非人道的な行為を行うのは、満足な教育や愛を与えられなかったためであり、ある意味被害者である。彼らの育った環境のせいで犯罪が起きるのだ。彼らは可哀想な人でもある。

 

 

という考えが、日本だけでなく世界中にある。その考えを肯定する問題点。→最初に結論書くとこれを受け入れた国はヨーロッパのような混乱に陥る。モラルが崩壊し自国民が苦しむ世界が生まれる。  

 

 

無自覚の残酷さを宿し、敵を擁護する思考になる。環境のせいにすれば言い訳に際限がなくなり、自己責任ではなく何かの責任に出来てしまい成長の機会を失う。

 

犯罪者は言い訳をして犯罪を正当化するが行き過ぎた慈善者も言い訳をして犯罪を正当化し擁護する。思考が似てしまうので行きつく先は同じになる。
 
 

 

犯罪をしたい時に清く正しい行いをすることを推奨するのではなく仕方ないで割り切れる残酷さが彼らにはわからない。
 
 

この言葉は、平和な言葉に見せかけた破壊の言葉なのを多くの人が認識していない。



・環境のせいにすることで、許せないようなことが「可哀想」になり、許すどころか無意識に味方になり、本来の味方や身内をせめ、悪なる人を擁護してしまうようになる。平和のためと思い、悪人を擁護し、罪のない人の痛みを必要な痛みと割り切れる。しかもそれは大抵反省や改善には繋がらない。無意識に被害者と加害者が逆転し悪の味方をするようになる。本当の被害者は彼らによって泣かされる人なのがわからない。





 

 

無意識の残虐性。例えば動物を虐待している人がいたとする。この場合は許さないになる人が多い。しかし、人間が人間に酷いことをしても「過去の辛い環境を考えると仕方ない」で済ませる思考になる。動物の時に仕方ないと言う人は中々いない。しかし、人間ならなる。その人の中では「無意識に」人間の犠牲は軽視されている。

※声をあげない盲導犬が怪我をさせられる事件が起きた。本当に許せない。しかし、人間も怪我をさせられ血を流し、助けての声も無視され犯された結果犠牲になってる。それを仕方ないで割り切れる精神がどれだけ残酷か彼らはわからないのである。ペットと同じように人間に対しても「許せない」と思うだけで世の中は変わるのに。





・環境のせいにすると、環境のせいで悪になったわけではない人には対応できなくなる。ただのろくでなしや、可哀想な人の区別もできなくなる。更に言うなら、既に非人道的な行為を「日常的」にしている時点でろくでなしなのに、過去に照らし合わせて可哀想な人と思うことができる。





そもそも悪になった原因は環境だけではないのに、それを暗に認めていない。しかし、環境要因が基礎になってるため、ただのろくでなしにも良い環境が与えられてしまう。環境を「与える」慈善やお金を「出す」慈善になる。
悪人の区別ができなくなるだけなく、頑張る人には支援がなく、ろくでなしには支援が向く慈善のカオス化。しかし、今はこれが基本。




身近な人や自分が犠牲になった時に、環境のせいなら仕方ないと言える人がいるだろうか。姉が、娘が、母が襲われたのは、彼の環境を考えると仕方ないですと言える肉親はいる?兄が、息子が、父が殺されたのは、彼が育った辛い思いを考えると仕方ないと言える?





この思考の最大の問題点。身近で起きた場合、到底受け入れられない思考が正しいものとして蔓延している。しかし、慈善を行なうものはそれに気付かない。問題というものは、仮に起きた場合、身近な問題としてとらえ備えるのが本来の対処法のはずだが、この考えではそれは行われない。多くの人が美辞麗句に騙されている。マザーテレサが慈善は身近からと言ったが、非人道的なことについても身近なものとしてとらえるべき。







身近なもの=子供が悪いことをしたと考えれば、悪いことをした子供を愛をもって全力で叱り、これからはこういったことはしないようにしようと愛をもってなだめる。





身近なものが犠牲になったのなら許さないになる。身近な問題として起きた時、被害者になっても加害者になっても、環境のせいなどと言う言葉は滅多に出ない。環境のせいだと色々言うのは自分が悪かったと潔く認めることができず「自分の罪を何かのせいにしたい言い訳がましい加害者」である


「無意識に」この加害者側から物事を考えるようになるのが今の仕組み。








自分の子供がいじめられたとする。教師に相談した時に、いじめる側も事情があるんですと言って、いじめをとがめない教師がいたらどう思うか。彼らの育った環境を考えるといじめが発生するのも仕方ないんですと教師が言ったらどう思うか。







いじめに対して怒れない、注意できないだけでなく、相手を擁護する先生がいたとしたら、言葉に表せない恐怖のようなものや、何とも言えないもどかしさを感じないだろうか。



世の中には許してはいけないものとそうでないものがある。行き過ぎた非人道的な行為は、環境のせいなどという言葉で許されるようなものではない。しかし、その感覚が著しくマヒし、物見ヤグラで見ているような人権主義者が、無意識に悪を肥やし、正直者を苦しめていく。





 

仮説
恐らく環境のせいで「可哀想」という概念を受け入れた人は、死刑反対論者になり、人類みな兄弟。国境はいらない多文化共生論者にかなり染まりやすくなるはず。そして、国に牙を向くテロリストや左派に近い考えになるはず。自覚のないぼんやり左翼。



なぜか。




俺から見れば救いようのない悪やろくでなしほど、可愛そうで救わないといけない人に見えている。救うためなら死刑反対になる。



 

死刑反対論者による冤罪の罠
確実な目撃者がいる犯罪や、再犯を繰り返す人、明らかに日頃の行動に問題がある人がいたとする。明らかに冤罪ではない犯罪もある。







しかし、どんな言い訳を使っても、死刑には反対したくなる思想になるはず。再犯を繰り返す人が犯罪を犯す確率と(通常は捕まらない迷惑行為も多くやっている)きちんと念入りに調査し、調べ上げた国が間違って人を殺める確率はどちらが高い。こう問いかけた時に、例え再犯率のほうが高いとしても、彼を信じましょうなどの言葉を巧みに使い反対するはず。





良い環境を与えたり、信頼を与えると彼らは良い人になると思っている。だから、危機感もなく多文化の概念を自らの思想に入れることができる。また、環境のせいにしている(主に国のせいにしている)ので左派系に近くなる。





善悪の判断が出来ない人は怖い。しかし、行き過ぎた信頼や愛を持つ人も、悪がまるでないないもののように捉えてしまっている。本来あるはずの悪がないのだから、正常に善悪の判断が出来てないように見える。警戒しなければいけないものも、平気で引き入れる思想になるはず。



結果

過度の人権主義者や、度が過ぎた平和主義者は、最終的には政治学者が言っていた、哀れみがテロリストの温床になり残酷を超えた残酷を生み出すにいきつく。彼らは平和のために動いているつもりでも「敵になりうる思想や人、団体」のために動くようになる。お花畑=工作員の働きとほぼ同じになるのを知ってる人なら納得してくれるでしょうか。欧州の悲劇も国全体が「環境のせい」「死刑反対」の価値観なので混乱必須かと。

 

日本の平和運動家などは最良のカモなのだ。そして平和運動家も喜んでそのカモになっている。(黄文雄)

 



このような思考になるのは、素直で優しい良い人ほどはまる。彼らはGHQの無力化政策に騙されてるだけで、平和を愛する原動力を誰よりも持っている人である。彼らがお花畑から脱出すれば最強の味方になる人材





なぜそういった考えが受け入れられている
今の憲法は平和憲法ではない。国民を平和ボケさせ防衛意識を無くすための憲法である。平和ボケんぽう。憲法を信じきった人は綺麗ごとしか言わなくなるし、敵側を味方するようになる。



今の憲法は米国に脅されて受け入れた憲法であり、正気の沙汰ではないと白洲次郎がおののいた憲法である。これを崇拝すれば「敵のために動き、自国をないがしろにする」のは当然とも言えるのだ。頼む危険性に気付いてくれ。マルクス崇拝↓
http://kanryuudaisuki.ldblog.jp/archives/38864232.html



悪いことをするのは情けない、格好悪い、許せない、恥ずかしいという日本の考えを、GHQが戦後大きく仕組みを変えてしまった。日本弱体化政策の一つ。※しかし、この環境要因説は世界中で使われている。





わかりやすい例
仲間が犯罪を犯す。仲間の弁護士がつく。
仲間の医師が診断書を書く。無罪になる。生活保護も仲間が申請する。仲間が許可する。



とか




国境にとらわれることは今の国際社会には向かない。移民を受け入れよう。人類愛を持って外国人に優しくして困った人を助けようとか、本を出したり、教育しながら、国内を見えない力で壊そうとしたり。

第一段階 「 工作員を送り込み、政府上層部の掌握と洗脳 」


 

第二段階 「 宣伝。メディアの掌握。大衆の扇動。無意識の誘導 」


 

第三段階 「 教育の掌握。国家意識の破壊 」


 

第四段階 「 抵抗意識の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用 」


 

第五段階 「 教育やメディアを利用して、自分で考える力を奪う 」

 

最終段階 「 国民が無抵抗で腑抜けになった時、大量移住で侵略完了 」 イマココ






 

環境のせいにするこんな考えを容認している恐ろしさも気付かない。危機意識とモラルの破壊。クリック推奨。見る人が見れば日本人か?と思う。  
 

http://blog.livedoor.jp/rinjinyabai/archives/24987965.html

 

上の状況見てからこれを見ると…。

http://kanryuudaisuki.ldblog.jp/archives/34158607.html




これを肯定するのは平和に繋がるわけがない。責任逃れを肯定しているだけだからだ。

 

 



どうすれば良い?

責任意識の改革が必要。環境のせいではなく自己責任で。環境に同情するのは悪いことではない。しかし、それ以上に悪なる行為をした場合「許さない」「そんなことをしてはだめ」と叱る気持ちも持たないといけないし、相手にも責任意識を持たせないといけない。
育った環境で培った心も含めて自分自身です。責任の矢印を自己に向ける大事さを伝え、環境に流されない「志し」を身につけさせるべき。







また、与えるのは「環境」や「お金」ではなく、それと同じかそれ以上に「生きる目的や目標」「環境に負けない志し」「人を思いやる心や道徳心」「環境やお金を作れるスキル」を与えないといけない。






環境を与え、そこで心が育つと思ったら大間違いで、怠け者やろくでなしに環境を与えてしまえば、逆に恐ろしい結果をもたらす。※環境を与えることで起こるカオスを別記事に書きます。





それと、工作員や悪がいるのを受け入れ戦う気持ちを持たないとこれは解決しないし、今の憲法は敵国が作ったものだというのを認識すべし。






誰だって環境のせいにしたほうが楽だし無理でしょうそれ…
大丈夫。他国では難しかもしれないけど、過去の日本ではやっていました。武士が10両盗んだ時と、庶民が10両盗んだ時、どちらが厳罰化の対象だったかわかりますか。武士は金額に関係なく窃盗は死罪になり、庶民は10両以上が死罪となりました。






 

 

また、江戸時代の享保年間20年続いた時代、牢屋に収監された犯罪者の数は、いったい何人だったかというと「0人」です。お奉行所が仕事をしないでサボっていたからではありません。牢屋に入れられるような犯罪を犯す者がいなかったのです。たとえば江戸265年間を通じて、日本橋の見張りさえいない、現金送金のためのザルから、現金が泥棒されたという事件が、ただの1件も起きていないのです。それが日本です。

 

 

 

 

 

 

 

  「外国人犯罪」




 




今とは信頼と責任の考えが違うのです。自己の行動に責任を持っているから、例え目の前に金がある環境があろうとも流されない。自分は犯罪を犯さない志しを持っていると言えるから窃盗で死罪という厳罰もうける。人々はそういった責任感を持っている人達に囲まれ信頼しているから、安心して現金を置ける。




これを今の時代にやったら、貧乏な人が盗みたくなるのは仕方ないじゃないですか。とか、ちゃんと保管してない現金は盗まれても文句が言えないとなる。また、平気で犯罪をするような人を信頼が大事ですと言って世に放つ。罰則厳罰化も意味がないと反対される。←意味あるから。これではカオスが広がるだけです。





刀も銃もある時代です。今のようにナイフなんてレベルではありません。今だけでなく、過去を見ても、このように犯罪率の低い平和を作ってる国がどこにあったでしょうか。今盛んに言われている美辞麗句は正しいのでしょうか。





そして残酷だと思われてた武士の世界はどうでしょうか。世の中に平和をもたらす仕組みに関して言うなら、俺は今の仕組みに大きな疑問符がつくのです。そして多くの人は、綺麗な言葉に騙されそれに気付いていないのです。





恐怖で逃げ出したくなる場面でも逃げ出さず国を守り、飢えや貧困で苦しい時に、暴動を起こすのではなく、次世代の子供のために教育施設をつくり、荒地でも育つ新しい農作物を探し、誰もが喜ぶお金の誘惑をいらないとはねのけ、お金を貰うくらいなら死を選ぶと言っていた誇り高き民族が我々日本人です。他国なら、その環境に流されカオスが起きるような場面でも、厳しく自らを律し平和を作ってきたご先祖様達。




こういうった心は環境が作るのでしょうか。環境とは何でしょうか。どんな人でも、母親に抱かれ、語り合うところから全てはスタートしています。




「元気に育て」「生まれてくれてありがとう」など、優しい言葉をかけて心が育っていく。裕福な家が、恵まれた環境が人を作るのではなく、心のふれあいから人格形成は始まっていくと俺は考えています。良き心のふれあいは、貧富の差に関係なく与えることができるもので、例え貧乏であろうと心を豊かにすることは可能だと考えています。






環境は人を作る大きな要素ですが、その環境を作るのは人々の心です。卵が先か鶏が先かという問がありますが、環境に関しては、明確に「心」が先だと俺は考えています。





その心があれば、貧乏な時に盗みではなく自分が豊かになろうと勉学に励み、田畑を耕すことができ、災害の時に暴動ではなく、助け合いをすることができる。飢饉や戦争の時に絶望するのではなく、次世代のために可能性を模索することができる。脅されても、お金の束をつきつけられても平和のために動くことができる。環境に流されない志しを持った人こそ平和を作る人になっていくのです。



しかし、俺から見ると心をないがしろにしている今の仕組みでは、絶対にこの境地にたどり着かない。(中にいる人が心を重視してるのも、頑張ってるも知ってますが)



今の慈善の仕組みは環境→心です。これがもたらす慈善のカオスを次回書きます。




続き クリック

 

 

少年非行を環境のせいにする反日勢力 クリック